感動した話と泣ける実話

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一般に感動する話や泣ける物語として語られているものの中には、実話もあればフィクションもあります。どちらも混ざって存在しているものの、あえて実際にあったエピソードだけを収集しているケースもあります。

映画や小説の場合には、フィクションが大多数を占める一方、実話を基にして構成されているケースもあるものの、話を完全に現実と同じように再現できるわけではないため、結局のところはあまり差はないのかもしれません。

泣ける歌として語られる曲の中にも、実話をベースにしたものがあります。もっとも、話として意味が明確に通じるほどのストーリー性を持たせた歌は少なく、大部分は日常や恋愛の一部を切り取ったものなので、多かれ少なかれ実際の出来事に題材を取ったものが多いと言えるのかもしれません。

当サイトでは、感動する話や泣ける話として紹介するものは実話とフィクションを区別していません。私が聞いた段階で、すでにどちらであるのか確証がないためでもあり、結果的に心に潤いをもたらすのであれば、明確に分ける意味を感じないためでもあります。

たまには思い切り涙を流すのは、ストレスを解消するためにもよいそうです。普段の生活では、あまり涙を見せる機会はないでしょうし、泣ける話をそうそうに耳にするわけでもありません。感動を呼ぶような物語は、映画や小説の中にばかりあるわけではありません。

恋愛に関する感動する話

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誰しも通る道と言えば、恋愛でしょう。モテルかどうかは人それぞれですが、切ない思いをしたり、泣けるような経験を持つ方は多いでしょう。その一方で、感動の話も詰まっている題材でもあります。

ここで、恋愛にまつわる感動の話を紹介しておきます。

「中学2年の時の話です。まだ付き合った経験もなく、憧ればかりが先行していた頃、同じ部活の先輩から告白されて付き合うようになりました。特に好きだったわけではなく、むしろ冴えない印象だったものの、とにかく彼女がほしい気持ちが勝っていました。

3ヶ月が過ぎた頃、どうしても本気になれない自分に限界を感じ、別れを決意しました。元々、相手に特別な感情もなかったし、恋愛と呼んでよいかどうかも分からない状態だったので、特に悲しみを感じるまでもなく終わっていくのだろうと思っていました。

よく通った公園で彼女とベンチに座り、すぐに別れを切り出そうとしたまではよかったものの、彼女は何気ない話を切り出し、言い出すタイミングを失って手持ち無沙汰に話を聞いていました。どうやら相性まで悪いようだと感じ、ますます付き合っていくのは無理だと感じていた時のことです。

彼女から、別れよう、と切り出されました。真意がはかれずに黙っていると、どうやらこちらの気持ちを察していたようです。今日を逃したら話すきっかけもなかったから、どうしても話しておきたかったと言った彼女の言葉に反応して、それまでの会話を頭の中で反復してみたら、1歳年上の先輩として、これからの中学生活、部活が終わり、高校受験に生活が染まっていく過程や、そこまでにやっておくことを伝えたかったのだと分かりました。

何にもしてあげられなくてごめん、と言い残して公園を後にした彼女の背中を見送って、自分の存在が嫌で仕方なくなりました。今まで、自分は彼女の容姿や外見に興味を持てないことばかり気にして、本質に向き合おうとしていなく、そんな男に先輩は最後まで優しくしてくれたのでした。

同じ学校に通いながらも、その後は顔を合わせる機会もほとんどなく、結局お礼の言葉も言えずに彼女は卒業していきました。恋愛の意味を知ったのは、あの別れの日だったのかもしれません。」

犬や動物の泣ける話

ペットを飼った経験を持つ人なら、それにまつわる感動する実話を目の当たりにする機会があるだけではなく、テレビで犬や自分の飼っている動物にまつわる泣ける話を聞いても、心が動きやすいのではないでしょうか。

猫やうさぎをはじめとして様々なペットが飼われている中でも、やはり代表的な動物となると犬でしょう。ここでは、動物の話として、まずは犬にまつわる感動の話をお届けします。

「我が家で飼っていた犬は、小学校2年生の時に捨てられていたのを見つけ、私が拾ってきました。両親は強く反対はせず、以前から動物を飼いたいと言っていたためか、すんなり了承してくれました。

犬の名はここでは伏せておきます。とにかく、小学校の時には愛情を注いでいたし、子犬を散歩させるのは何よりの楽しみでした。友人にも可愛がられていて、一緒に遊ぶのが日課になっていました。

しかし、中学に上がった頃からは部活が忙しくなったこともあり、犬と過ごす時間は減るばかりでした。散歩をさせる日もあったものの、義務感から嫌々という印象が強く、飼い始めた頃のような感動はすっかり失っていました。

高校に上がり、短大を出て社会人になって一人暮らしをスタートすると、もはや実家の犬を思い出すこともなくなり、ペットを飼う余裕なんてまったくないまま、不慣れな仕事と家事に追われていました。

就職して最初に迎えたお正月に実家に戻ると、いつの間にか年老いた犬がそこにはいました。子犬だった頃からは想像もできないほど年齢を重ねた姿を見ると、これから何度会えるのだろうと、急に不安になりました。もしかしたら、片手で数えられる程度かもしれません。

それでも、再び会社と自宅の往復に終われ、週末は恋愛をしたり、目新しく映る東京の街でショッピングをしたりしている間に半年が流れた頃、母親からケータイに留守電のメッセージが入っていました。老衰で犬が亡くなってしまったのです。

最近はすっかり元気がなくなっていたものの、前日の夜には変わった様子はなかったのに、一夜経って朝になると、犬は動かなくなっていたそうです。火曜日だったため、仕事が休みになる週末までは何日もあります。しかし、近親者とは違い、ペットが亡くなったことを理由に会社を早退して数日間の休みをもらえる立場でもありません。少なくても、社会的には人間と動物では扱いが違うのは、厳然たる事実だと思い知らされました。

これまでの振る舞いが思い出され、後悔が募りました。この期に及んで、すぐに駆けつけることすらできない自分のふがいなさに涙があふれ、昼食を取るのも忘れて泣き続けました。 どこで歯車が狂ってしまったのか、思い出しても整理はできません。流れる涙がどこからやってくるのかも分からず、犬から離れてしまっていたはずの気持ちが急に戻ってきたようで、自分勝手で不甲斐なく、泣けることすらも申し訳なく思えて仕方ありませんでした。

涙を流しながら思い出したのは、お正月に最後にあった時、かつては溺愛していた犬は私を警戒する仕草も見せず、すぐに寄ってきてくれました。その事実に感動しなかった自分が心から申し訳なくて仕方ありません。」

続いてうさぎをペットショップで見た動物好きの方の感動の話です。ペットが置かれている現状を考えると泣ける気持ちになってきます。

「皆さんも一度ぐらいはペットショップに行ったことがあるのではないでしょうか?自分で動物を飼うようになるまでは気付きませんでしたが、実際にうさぎを飼うようになったら、その環境に疑問を感じるようになりました。

狭いケージの中に閉じ込められ、売れなければ数ヶ月もそこに置かれているのだから、動物にとっては大変な状態です。しかも、十分にえさや水を与えられたり、衛生的な環境で飼育しているペットショップばかりではありません。飼い主としての視点で見てみると、専門知識を持っているスタッフが飼育しているとは考えられない環境に動物が置かれていることが、実際にあるのです。

心の痛い話ですが、その都度購入して育てていけるほどの経済力もなく、仮に買って帰ったとしても、ペットショップは新しい動物を仕入れてくるだけなので、結局は本質的な解決になっていません。

お金のために動物を利用するのは許せないものの、他人の商売に口を出したところで、開き直られたら終わりという思いが強くのしかかり、結局ペットショップに近寄らないようにしていました。店内に入ってしまえば、胸が痛むことになるからです。

しかし、保健所に連絡したり、店員に直接抗議して動物の飼育環境を改善している人達がいることを知り、感動しました。動物愛護団体に所属しているわけではなく、個人としてそのような行動を取っている人がいるのなら、自分でも同じことができそうです。

個人の力には限界があるのも事実ですが、何もしないよりはよいでしょう。実際、家から二駅先にあるペットショップに行った時、うさぎの水がなかったので、それを指摘してみました。すると、うさぎには水が必要ないと誤解していたことが分かり、すぐに水を補給してくれました。

本来であれば、ペットショップの店員なら、店にいる動物について責任を持たなくてはならないはずですが、実際には経営者がそこまでの指導ができないこともあるのでしょう。一つ一つ間違いを正していけば、少しでも動物が幸せに暮らせる環境を作るのに貢献できるのかもしれません。」

家族にまつわる感動する話

一人暮らしを初めて、家族のありがたさが身にしみたり、子供が結婚する際に感動した経験を持つ方は少なくないでしょう。身近な人でありながら、あまりに距離が近すぎるために、普段はその存在に感謝する機会は少なくなりがちですが、泣ける話が多い題材でもあります。

そこで、家族に関する感動する話を紹介しておきます。特に娘を持つ父親や、すでに結婚した女性にとっては泣ける話でしょう。

「思春期の頃に父親と距離を置き始めたのは、今になってみれば同級生からの影響で、周りに感化されて始めた行動でしたが、徐々に遠ざかるにつれ、ますます本心から嫌になっていきました。

高校を卒業して大阪で就職すると、実家を離れて一人暮らしをするようになったため、父親と顔を合わせる機会もなくなりました。それはせいせいすることであって、寂しさを感じたりもしませんでした。

やがて結婚が決まり、実家に彼を連れて行く段階になって、久しぶりに父と向き合って話していることに気まずさを覚えながらも、すぐに了承してくれるだろうと思っていました。あえて猛反対をする理由もないし、ある意味ではそんな資格がないとさえ感じていたのです。

たしかに結婚は了承してくれたものの、父は式には出ないと言い始めました。仲の良い親子ではなかったにしても、さすがに結婚式に出ないのはないだろうと、母も加わって説得に加わり、後日になってようやく出席の約束を取り付けました。

なぜ、このようなわがままを言い出したのだろうと憤ったりもして、ますます父が分からなくなったものの、自分が出産して娘を生んだ時、夫が言った言葉がきっかけで、何かが変わりました。「娘が生まれて、お父さんの気持ちが分かった」という何気ない言葉が、これまでに注がれてきた愛情に気付かせてくれるきっかけになったのでしょう。涙が流れてきました。

娘を愛しているのは同じでも、男親と女親では表現の方法や接し方がどうしても違うものなのかもしれません。娘を連れて実家に戻り、孫をあやす父を見ていると、何だか申し訳ないような気になります。ただ、娘が仲介役になって、私達もようやく静かな若いを遂げ、自然に接することができるようになりました。」

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